中村登美枝さんの戦争体験を聞いて

2011年7月20日 09時19分 | カテゴリー: 活動報告

次世代に語り継ぐことの大切さ

 終戦直後、19歳の若い娘が12人の孤児を引き連れてソ連軍支配の朝鮮半島を逃避行し、無事帰国した。中村登美枝さんのその苦難の体験を支えたのが結婚を約束した日本兵の恋人の別れ際の言葉、「どんなことがあっても、生きて日本に帰れよ!」だった。その体験を「おばあちゃんの初恋」にまとめられ出版された。7月16日(土)国分北集会所「戦争体験を語り継ぐ会」でインタビュアーとしてお聞きすることができた。

 彼の言葉が支えになったのは、「敗戦だよ」と日本兵から避難民に1つずつ自決用の手榴弾が渡された時だ。「日本が負けても、落胆しないで生きて帰れ」と胸に響いた。
ソ連兵や朝鮮人に強姦されないように、坊主にし、鍋墨を顔中に塗って、男の姿で逃避行中、それでも、狙われた。避難所のお寺でロスケに首元にピストルを突きつけられたとき、「絶体絶命」と思ったが、彼の言葉を思い出し、落ち着いた行動が取れ助かったのだ。
日本人収容所で、食料不足と寒さの中、母と父が死亡し、弟と孤児になった。最年長の登美枝さんが、孤児の面倒を見るように団長に言われ、3歳から16歳までの12人の姉役を務める。子どもは足手まといと、その団長に置き去りにされ、孤児たちだけの逃避行。270キロを2ヶ月半かけ、歩いて越えた38度線。寒さと飢えに耐え、大人の冷たい仕打ちにも負けず、子どもたちだけで帰国できたのは、彼の言葉が支えだった。

私は本を読み、さらにお話を聞いて「初恋の人の言葉を胸に、人はこんなにも強く生き抜くことができるのだろうか。」と自問自答していた。登美枝さんの生まれ持った芯の強い性格、さらに軍国教育で裏打ちされた、精神力の強さにあると思われる。だからこそ、人を育てる教育は大切だ。横浜市を始めいくつかの自治体では、歴史の事実を歪曲した社会科の教科書が採用されている。海老名市では採用されないように、市民の注視が必要だ。中村さんが本に著したのは、「当時の自分と同じ19歳になった孫娘に、戦争中の悲惨さを伝えたい。」との思いからだった。原子力発電所の危険性を感知しながらも、きちんと個人の意思をしめさないことが容認することになり、今回の事故につながったのだと思える。事故が起きてからでは遅い。二度と戦争に向かわないように、にこのような「場」をこれからも身近なところで設け、「平和を守り続けることがどれほど大変なことか」次世代に繋げていきたい。
この著書は2011年、日本自分史学会主催のコンクール「私の物語・日本自分史大賞」で「昭和の記録賞」を受賞した。